グループディスカッションをして思ったけど
物は言いようとはよく言ったもので、我々が手に持っているスマホも、フォン(電話)と言いながらも、よく考えるとパソコンだったりする。 普段取り立てて考えてみるわけでないためにスルーしているが、意外と我々は言葉に関して寛容だ。 というのも就職活動のグループディスカッションで、議題が弊社で活躍するために求められる資質は?というものを出され、私はすかさず活躍の定義づけにはしったからだ。やべ、俺の文系の悪いところを凝縮したような発言出ちまった...などとは思ったものの、まぁよしとして、この発言は意外と評価されて大切だよーーなどといわれた。黙れと思ったが。 何を隠そう言語系を専門に学習していたからか、意識的に関連書物を読む機会が多く、この話については、ヴィトゲンシュタインの哲学探究で語られる言語の曖昧さみたいな考え方を思い出す。 これは、言語に明確な定義はなく、我々は「なんとなく」でコミュニケーションをやってるということをいっていて、母親の言ってる「水色」と自分の「水色」の認識では微妙に違うかもしれないということである。(と理解できる) しかもそのなんとなくの定義はフワフワしながらもそれぞれに違いがあって、共有されているものではない。 だからこそである。原理上完全な理解は不可能だが、すこしでも向いている方向を明確にすることは、コミュニケーションを綿密に行う上では大切なのだと思う。 発言の意図を、少しきもくても「というのも〇〇は△△で...」のように付け加えることで、通じるものがあるかもね、というお話。 勉強の哲学のアイロニーとユーモアもここにつながる話でしたね。